日常の備忘録

毎日思ったことを書いていきます。

愛の行く末には名前がつく。〜チェンジアップを愛した人の話〜

 

「チェンジアップを愛した人」から学んだのは、本当の愛には自然と、 ”オリジナルの名前がつく" のだということ。

 

意味がわからないと思うので、今日はここにとても個人的な、だけど書かずにはいられない発見を書きたい。

私はその人の名前は知らない、同じ高校の先輩だということ。社会人野球でピッチャーをやっているごく普通の社会人だということ。この二つしか知らない。

 

だけど、秘密になんてしていられない。「本当の愛は名を残す」のだと、そしてそれは「誰にも真似できない」のだと、その人によって証明されてしまったから。

 

 

まず、チェンジアップ、という言葉をご存知だろうか。

 

それは、野球・ソフトボールの投手が投げる球種の一つ。ベースボールの国であるアメリカでは、このチェンジアップは球種というより「速度の遅いストレート」と認識されることが多いんだとか。そう、チェンジアップはストレートの遅いバージョンに限りなく近い。

 

先に言っておくと、私はこのチェンジアップというボールをたぶん4年間くらい投げ続けた。私も、かつてそのスポーツをやっていたことがあって、マウンドに立っていたことがあった。

 

話は戻る。一見、ストレートと同じフォームから繰り出されるチェンジアップ。ピッチャーというポジションをやったことがある人じゃないと意外と他の球種より軽視されがちな技術だけど、チェンジアップで三振を取られたことがあるバッターならその球の本当の怖さを体で知っていると思う。

 

そう、チェンジアップはバッターのタイミングを狂わせたい時に使う技。それはしばし、とんでもない効力を発揮するが、すっぽ抜けるとホームランになりかねない危険な球種でもある。だからチェンジアップの本当の怖さを知っているのはバッターだけじゃない、ピッチャーも然りなのだ。

 

そんな私が感動したのは、「チェンジアップの尊さ」を名前も知らない人から教えてもらったからなんかじゃない。身震いするほどの発見をもらったのは、もうチェンジアップとか野球とか関係なく、「愛の行く末」を教えてもらったから。その人は、チェンジアップについてこう言った。

 

「チェンジアップ。あれは、”奥行きのボール”だね」と。

 

 

奥行きのボール。

 

 

私はチェンジアップをこんな言葉で語る人を初めて知った。有名な野球選手も、今まで言ったことはなかったのではないかと思う。いや、正直真相は知らない、でも私は衝撃だった。だって、私はチェンジアップとそういうふうに向き合ったことがなかったのだから。

 

彼が、どんなチェンジアップを投げるのか私は見たこともない。ただ、その人がチェンジアップというボールについて、きっととても真剣に向き合ってきて出た言葉が「奥行き」という言葉だったのだろうということはなんとなく想像がついた。

 

野球を、愛しているのだなと思った。ひどく感動して涙が出た。ああ、素晴らしい野球人がいたもんだな、と。

 

それから、

 

名前がつくのだな、と。

 

チェンジアップは、彼にとっては空間を切り取るボールらしい。そして時空をも操るそうだ。言っていることはわかる、3Dに変化し、時差でバッターを打ち取る。だけどそれをみんな「チェンジアップ」という言葉にまとめてきた、そういうもんだとその先を追及しなかった。いや、みんなはズルイかな。少なくとも私は、その効力と教科書に甘えてきた。自分だけのチェンジアップを磨き上げようなんて、思わなかった。

 

チェンジアップを「奥行きのボール」なんて呼べる彼をすごく羨ましいと思った。もう誰が彼よりすごいチェンジアップを投げたとしても、彼のチェンジアップの愛には敵わないんじゃないかと思った。名前を残されたら、もう誰も「奥行きのボール」は投げれないから。それは彼だけのオリジナルチェンジアップだったと思うから。

 

愛の行く末には名前がつく。彼のチェンジアップへの執念なのか、愛なのかわからないけれど、向き合ってきた時間には「奥行きのボール」というオリジナルの名前がついた。

 

世界にひとつだけのチェンジアップ。私のピッチャー人生でできなかったことだ、心底羨ましい、そして学びました。ありがとうございます、私はベースボールを通して人生でとても大切なことを教えてもらっている気がします、今でも。

 

 

 

 

漫画『Major(メジャー)』を10年近く経ってから読見直したら調査欲が湧いた。

漫画『Major(メジャー)』が素晴らしかった。(以下、アニメ表記の『メジャー』に合わせてメジャーと表記します。)

 

最近、というかもうだいぶ前からだけど「好きな漫画について」語りたくて仕方がない。

 

というのも、大人になってから読んだ『メジャー』が胸にくるものがあったから。野球漫画はたくさんあるけれど、私自身は子供の頃からこのメジャーという作品が一番身近で、当時部活動に明け暮れていた自分と一緒に青春時代を共にしてきた漫画の一つだ。

 

しかし部活動に明け暮れ、主人公・吾郎と同じように白球を追いかけていた自身の子供時代より、今21歳になって読んだメジャーがなぜだかわからないけれど涙なしでは読めなかったくらい、自分の痛いところをグググっと掘り返してくれたように感じた。

 

あの吾郎に対する苦しくも憧れずにはいられない感覚はなんだったのだろう?この熱が冷めやらぬうちにメジャーについて書いていきたいと思う。書いているうちに、なぜ私が時を経て、メジャーにここまで感動できたのか答え合わせができればきっと本望だ。

 

だけど私が21歳になって読み返したのは、実は最終巻だけ。最終巻だけでここまで感動してしまったのだけど、そこに至るまでの背景を読み返したら思うことは違ってくるのかもしれない。ストーリーを掻い摘んで感想を述べることは、個人的にはあまり好きじゃないというのもあるけれど。

 

なので、とりあえずメジャーの歴史について調査してみようと思う。歴史や背景をきちんと知ってからメジャーを読み返した時、メジャーはどんな作品に見えるのか。メジャーはただの野球漫画だったと思えないくらい感動した理由はなんだったのか。

 

その答え合わせができればいいなと思う。

 

 

それは継続か、習慣か

 

こんばんは、小山内です。ブログを3日連続更新するのはじつは初めてなもので。今日は「継続」についてお話ししたいと思います。

 

これを読んでくれているあなたは今現在、何か「続けている」ことはありますか?たとえば本を読むこと、ブログを書くこと…そしてそれを続けた先に何か小さな野望はあるのでしょうか。ここで言いたいのは、「続けていること」の捉え方はおそらくふたつありますよね、ということです。なんとなく続けている継続と、何かのために続けている継続。後者は、やっぱり目に見えて、そして社会的的な文脈で評価されるためにやっていることが多いのではないかと思います。

 

たとえばブログを続けている人は、その先に 「月間50万PV」だとか、本を読み続けている人は、「自分も何かを書いて認められたい」だとか。継続の目指す先にやはり何かがあると思うのですよね。この何かとは壁ですよね。継続しないと壊れない壁です。そしてその壁に辿り着く道中にもいくつもの小さな壁がある。この壁があるということは、継続するために必然というか不可欠であるように思います。

 

じゃあ目的のない継続は存在しないのか?ということになりますけれども、でもそれはどちらかというと「習慣」に近いものかもしれませんね。毎日コーヒーを飲む、毎日花の水やりをする。それは続けていることだけれど、継続ではなく「習慣」ではないでしょうか。そうそう、やっぱり毎日コーヒーを飲んだ先に何があるのか?だと思うんです。コーヒーを飲むことで一日一日更新される何かを期待しているのなら、それは継続だと思うのですが、「毎日コーヒーを飲むこと」自体に価値を見出していたら、そこに壁はないですよね。だから習慣なのではないかなぁと、あくまで私個人の考えですどね。

 

だから継続って習慣より難しいのかもしれませんね。わたしも、もうだいぶ前から花の水やりをしているのですが、そこに乗り越えたい壁はないんですよね。花の水やりをした先になりたい自分は、とくにないんですよ。ちょっと前までこれは継続だと思っていたんですけどね。ここまで書いてきたことに気づいたら、花の水やりは習慣でした。

 

やっぱり、継続の先にはいつも、なりたい自分がいるのではないかなと思うんです。そのためにどうしても他人からは見えないし教えてももらえないような壁がいくつもあって、それを一つずつ叩いて壊していくこと。それ自体が継続なのではないかと思うのです。そしてゆくゆくは目に見えた力になる。まさに「継続は力なり」だということではないでしょうか。そうですね、この言葉を逆説的にとらえると、「継続は力を手に入れるために不可欠なもの」なのかもしれません。

 

いま、これを読んでくれているあなたが続けていることがあるとしたらそれは継続でしょうか、それとも習慣でしょうか。どちらが良いとか悪いとか、もちろんそんな話ではありません。そうですね、わたしは毎朝の花の水やりをしている時間が、今の生活の中でとっても幸せです。

 

 

 

 

 

 

「親友」という言葉の捉え方を考える

こんばんは、小山内です。昨日は「植物」について書きました。

さて、本日は「親友」について書きたいと思います。

 親友という二文字、どう思いますか?わたしの友人は親友という言葉が嫌いなそうで。たしかに言葉に決められた関係ってちょっと違和感があるのかもしれませんね。作家・綿矢りささんの『かわいそうだね?』でもこんな一節がありますよね。

 

彼氏彼女と呼び合う関係に、一体何の意味があっただろう。誰と誰の心が深くつながっているかに呼び名なんて関係ない

 それでもわたしには「親友」と呼びたいたったひとりの女の子がいます。この世で一番好きなんですよ、彼女のこと。だから親友とあえて呼んでいるのですが、それは現在の関係を表す一言というより、わたしの一方的な想いに近いのかもしれないなぁと最近思うのです。たしかに「親友である」という関係自体には興味がないんです。ただ親友という言葉が今の日本でもっとも大切な友人を表す一言だから、彼女をそう読んでいるんです。彼女がわたしを親友と思っているかどうかは関係ないし、「わたしたちが親友であること」を了解しあう必要なんてないんです。

 

なんだか難しい話になってきましたね(笑)。つまり、綿矢りささんのいう通り、誰と誰の心が深く繋がっているかに呼び名なんて関係ない、ということに同意したいということです。わたしが親友を親友と呼ぶということだけで、私たちは親友であると誰かに言いたいわけではないんですよね。たったひとり、この世で代え難く好きな友人、それが親友だと思っています。周りから見たふたりの関係性にはなんとでも、名前をつけてくださいと言った具合なわけです。

 

これを読んでくれている、あなたにとっての親友ってなんでしょう?なにか、見返りのある存在でしょうか、自分の心を依存させている存在でしょうか。わたしの友人は「親友」という言葉が嫌い。とさっきお話ししましたが、友人の中では親友という言葉がどういう風に捉えられているのでしょう、とっても気になりますね。

 

 

 

美しいものとはなにか

 

こんばんは。今日は植物について書こうと思います。

 

この記事をうっかり読んでしまったあなたは、「植物」はお好きですか?わたしには親友がいるのですが、彼女はあんまり植物が好きじゃないみたいで。花粉が飛ぶから触りたくない、らしいです(笑)。こればっかりは価値観ですよね、わたしが節足動物が苦手なのと一緒です。

 

それでもわたしが作ったドライフラワーを「綺麗だから模写する」とスケッチブックにサラサラ、バラの輪郭を乗せていく彼女はきっと、綺麗なものは好きなんでしょう。なるほどたしかに美しいものはひとの心を癒しますよね。海や山と一緒で、植物にもそういうひとの心に寄り添う優しさがあるのだと思います。

 

美しいものはいつも自由で優しい。これはわたしが美しいと感じるものに共通することです。海もそうです。海はとても自由ですよね、気まぐれに波の高さを変えてみたり、海の動物を運んだり、島を削ったり。海の気分なんて知りません。どこまで行っても海は自由です。そして海は、自由奔放なくせにときに私たちの心に寄り添いますよね。海を見て感情を揺さぶられますが、やがて海を見て心が静まります。そしてまた、海に会いに行きたくなる。そんな経験を、あなたもしたことがあるのではないでしょうか。

 

植物は、どうでしょう。都会の中に植物があることは植物が自由で優しいことをより一層際立たせているように思います。都会は縦と横の連続です。部屋の中だけではなく、一歩外に出て見ても建物は縦と横、直線と直線の連続。でも、人間はそうじゃないんです。人間は本来自然であり、死ぬまで形を変えるもの。だから、ほら、ちょっと縦と横に疲れる時があると思います。

 

植物は、自由です。縦と横なんかじゃない。一つ一つ顔を持っていて、のびのび手足を伸ばしています、自由にやりたいように。そんな姿は私たちに勇気と希望を与えます。こんなふうに生きていいんだと思わせてくれます。なぜでしょう。それはやっぱり花を咲かせてくれるからです。のびのびと手足を伸ばしてぐんぐん緑を茂らせて、最後は花を咲かす。「それでいいんだ、それがいいんだ」と、私たちの心に語りかけている、と思うのです。

 

美しいものはいつも自由で優しい。今日はそんなことを書いて見ましたがどうでしょう。これを読んでくれている、あなたの美しいものを知りたいです。自由で優しくなくたって、全然いいと思います。その理由を聞いてみたいなって思うだけなんです。

 

 

 

 

 

 

 

「それでも、好きだよ」は愛だと思う

 

「それでも、好きだよ」

 

と、いうワンフレーズは指原莉乃さんのAKB48からのソロデビューシングル

『それでも好きだよ』のワンフレーズ。ラーメン屋でこの曲が流れていてふと、箸が止まりました。久しぶりの更新ですが、今日は「それでも好きであること」について書こうと思います。

 

 

指原莉乃さんは今では言わずと知れた国民的アイドル。私の高校時代からも“さっしー”の愛称で親しまれていた彼女ですが、その人生は波乱万丈だったようで。私がここでいくらそれを伝えようとしてもうまく伝えられないので割愛しますが、ところでさっしーの何がすごく好きか。

 

まずはこれをご覧ください。

 

MBS放送のラジオ番組『ヤングタウン土曜日』で、明石家さんまさんがHKT48指原莉乃について語っています。

 

さんまは、感心したように「そうか~、(指原は)アイドルを目指してアイドルになって。それで今やセンターで、人気投票ナンバー1になっていくんだ。凄いな~。でも途中、男の告白で博多に行かされ、そこからまた復活して・・・」と語り、「そいで『恋するフォーチュンクッキー』のセンターや。あの名曲のセンター、指原やからね」と改めて指原の人生を振り返るさんま。

http://news.aol.jp/2016/03/30/sashihararino/(AOLオンライン・ジャパン)

 

そうです。まず、さっしーはアイドルを目指して実際にアイドルになりました。それから紆余曲折を経てセンターを獲ったんです。

中学時代は相当なアイドルオタクだったというさっしー。中学時代からいじめに合うも、AKBのオーディションを受け見事合格しアイドルへの道が始まります。

 それからさんまさんの言うように男性問題で博多に飛ばされますが、その後、不死鳥のごとくセンターとして復帰。2016年には2年連続でセンターに輝くのです。

 

そんなさっしーが歌う『それでも好きだよ』。これがさっしーの最初のソロデビュー曲なんて、笑顔の裏にたくさん泣いてきたエピソード秘めている彼女だからこそ、胸にくるものがあります。

 

『それでも好きだよ』は恋愛ソングなのですが、もしかしたら指原莉乃さんが中学時代から追いかけた「アイドル」というたったひとつの憧れに対する歌だったのでは?と勝手に解釈してしまうほど。

 

辛いことがたくさんあったけど、それでも好きだ、と。

 

恋愛に限らず私たちも「それでも好きだ」と思って諦められないことがあると思います。たとえ好きで始めたことでも、辛いことがあったり理想とのギャップに苦しんだりすると、好きだったことが折れちゃうことがあると思います。憧れは憧れでいいや、とか。他にもっと楽に好きでいられることを探そう、とか。

 

たぶんそれでもいいんです。自分が幸せな方を選べばいいから。そこで無理に頑張れよ、だなんて私も他人に言える立場じゃないなぁ、と諦めたことがある過去を振り返ります。「辛くなった」。そこにあるのはたったひとつ、好きと辛いが天秤にかけられて、痛みの方が勝ってしまったという事実だけなのでしょう。

 

でも、わかるんです。
好きの先にあった「それでも好き」がもっと好きになれたということで、もっと愛おしいものになれたということ。好きだって思って始めたことに挑戦していけば挑戦していくほど、じつは辛いことも増えていきます。自分に足りないことが見えてきて、向いてないんじゃないかとか、私じゃ突き詰めることなんてできないんじゃないか、とか。

 

だけど、やっぱりそれでも好きだと思ってしまったら、もうそれは好きになり始めたころよりもっと好きになれてる。好きの先にあるのはきっと、愛です。それは続けないとわからないこと。さっしーのように、辛いことがあった中でもアイドルを諦めず、続けてきたから歌える『それでも好きだよ』だったのではないかな、と思います。

 

好きの先にあるのは、いつも「それでも好きだ」という答えでしょう。そこには本当は「それでも」を言いたくなるほどやめたくなったことがあります。でも、本当の好きは続けた先にしか見つからないのかもしれない。

 

今ちょっと辛いことがあって投げ出したくなる人には、ぜひ聴いてほしいです。指原莉乃『それでも好きだよ』。

 

 

女は上書き保存だなんて言うけれど

 

こんばんは小山内です。

 

よく「女の恋愛は上書き保存」だなんて言うけれど、全部が全部そうなわけじゃない。と言うことについて書きます。恋愛ネタ考えている時が一番生き生きと書けるのは、女の子に生まれたからではなく、アホみたいな妄想を脳内のアニメキャラと菅田将暉と繰り返してきた賜物だと自負している。

 

で、女の恋愛は上書き保存じゃないよたぶん。となぜ思ったのかと言うと、最近自分自身の失恋と向き合う機会があって。正直21年しか生きていなくても自分も周りも、それなりに痛い思いしてるね(笑)と思うのは恋愛でした。

 

昔の彼を思い出し、「なんで好きだったんだ…」と頭を抱え出す友人を目の前に、「めっちゃわかるー」とビールをガーっと胃に放り込んで、「本当になんで好きだったんだろう」と自分が過去にお付き合いしていた相手を思い出しても、いまいちなんでどこがどんなところが好きだったのかは思い出せません。これまさに、「上書き保存されてるわぁ…」と思う機会があったんですよね。

 

でも、馴れ初め聞いたら話すんですよ、友人。

 

 

こういう流れでさ、

こう思ってたんだけどさ、

こう言われてさ、

それで、好きだって、思って。

 

って。

あー、そっか。と、私も過去の恋愛思い出してみても、
「始まり」だけはちゃんと思い出せるんですよね。なんで好きだったかもどこが好きだったかもどんなデートが楽しかったのかも正直いまいち思い出せないけど、始まりだけはちゃんと思い出せる。人それぞれだと思うけど、私と友人の脳内ではこればかりは上書き保存されてなくて、一つ一つ今もキラキラしてる。

 

ので、たぶん二人の関係が始まる瞬間が、

恋愛のどんな瞬間よりも素敵なんじゃないかと思いました。

 

 

おしまい